「春に散る」
2023年8月25日公開
「勝ち負け」がはっきりしていて、戦うそれぞれにドラマがあるボクシングが好きだ。幼い頃、テレビ各局でレギュラーのボクシング番組があったのを覚えているが、その時は「大人の男同士の戦い」はあまりにも濃すぎて「直視」はできなかった。それが、がぜん興味を抱くようになったのは、沢木耕太郎のノンフィクション「敗れざる者たち」(1976年発表)を読んだこと。それまで、スポーツなどの勝負事を文章や映像で取り上げるのは「勝者」がほとんどだったのが、沢木は真反対にある「敗者」に目を向けた。そこには、階段をのぼりつめた人よりも、胸を打つドラマがあるのを知った。同書の一編として収録されている「クレイになれなかった男」として取り上げたのはカシアス内藤という選手。日本女性とアフリカ系アメリカ男性の間に生まれた彼は、「カシアス・クレイ(モハメッド・アリ)」にルックスやファイトスタイルが似ていることもあって将来を期待されたが、生い立ちやボクサーには向かない?気が優しい性格もあって、ついに世界王者にはなれなかった。沢木はそんな彼にも魅せられて、この後に「一瞬の夏」(1981年)というノンフィクションも発表して高い評価を得た。
この映画「春に散る」も沢木の同名作品が原作。小説というスタイルをとってはいるが、前述したようなボクシングへの取材、「敗れざる者たち」へのリスペクトが込められている。あらすじは、個性的なコーチと彼に師事したボクサーが「世界」を目指して突き進むなか、さまざまな出来事が待ち受けている。こうしたストーリーラインは、現実にはエディ・タウンゼント(コーチ)とカシアス内藤、赤井英和らとの関係。フィクションでは映画「ロッキー」のミッキーとロッキ・バルボア、漫画「あしたのジョー」での丹下段平、矢吹丈にもある。数あるボクシングのもののなか、いっそう観客に訴えるのに必要なのは、さらなるリアリティーだろう。
主人公を演じる横浜流星は、減量とトレーニングで井上尚也をほうふつさせる若きボクサーをリアルに作り出している。(対戦相手の世界王者に扮する窪田正孝もしかり)。さらに中学生時代に極真空手で「世界一」になった横浜は、この映画をきっかけにボクシングプロテストに合格、俳優であると同時に実生活でも「求道者」を体現している。また、佐藤浩市が演じたコーチは、ボクサー引退後にアメリカで事業が成功したいわゆる「勝者」でもある。しかし、ずっと満たされない気持ちを持ち、しかもいまは病におかされる境遇にいる。コーチとボクサー、どちらも肉体に「爆弾」を抱える2人の男が「勝利の一瞬」を目指す姿が鬼気迫る。さらに、実際にプロボクサーでもあった片岡鶴太郎扮するトレーナーがリング下からの声を張り上げるアドバイスも、そうしたバックボーンがありリアリティーを感じる。監督は「ラーゲリより愛を込めて」「糸」などの瀬々敬久。この映画には「花開く」美しさより、「散る」美学を感じた。
〈物語〉 40年ぶりに故郷の地を踏んだ、元ボクサーの広岡仁一(佐藤浩市)。引退を決めたアメリカで事業を興し成功を収めたが、不完全燃焼の心を抱えて突然帰国したのだ。かつて所属したジムを訪れ、かつて広岡に恋心を抱き、今は亡き父から会長の座を継いだ令子(山口智子)に挨拶した広岡は、今はすっかり落ちぶれたという二人の仲間に会いに行く。そんな広岡の前に不公平な判定負けに怒り、一度はボクシングをやめた黒木翔吾(横浜流星)が現れ、広岡の指導を受けたいと懇願する。そこへ広岡の姪の佳菜子(橋本環奈)も加わり不思議な共同生活が始まった。やがて翔吾をチャンピオンにするという広岡の情熱は、翔吾はもちろん一度は夢を諦めた周りの人々を巻き込んでいく。
🄫2023 映画『春に散る』製作委員会

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