11月15日の昼からバスに乗り映画の試写を見に行こうとしてスマホを見ると「大森一樹監督死去」の報が入っていた。「まさか!」と頭が真っ白になり、バスを見送り自宅に戻った。今年3月の「おおさかシネマフェスティバル2022」で会うはずだったが、欠席だったので「少し体調が悪いのだろう」とくらいに思っていて、その報に茫然となった。今年の初めの電話では「病院には行っているが、当日体調が良ければシネフェスには行きます」と話し元気そうな声だった。
筆者は彼が京都府立医大の学生で、8㍉で自主映画を撮っているとき、出会った。自宅は芦屋市だったので、彼は西宮、神戸の映画館によく出かけ、当時の名画座常連で若い映画ファンの集まり「グループ無国籍」のリーダーを務めていた。ある時、16㍉フィルムを使って映画を撮ると、彼が敬愛する鈴木清順監督を出演者に招聘し、三宮界隈で撮影を始めた。自主映画の金字塔「暗くなるまで待てない!」(1975年キネマ旬報邦画ベストテン第21位)である。
映画が好きな若者が8㍉で映画を作る話で、ヒロインがプロの監督(藤田敏八監督ふう)にスカウトされ若者たちは自分たちの作品について「これ以上面白い映画があるもんか!」と叫んだ。当時、橋浦方人、井筒和幸、長崎俊一、そして森田芳光、石井聡互(現・岳龍)ら自主映画の若い監督が同じ言葉を叫び腕を磨いていたような気がする。先に達人、大林宣彦監督がおられたが、やがて大森一樹が素人の学生時代にプロの松竹に招かれて「オレンジロード急行」を(78年)撮ったのは唯一無二の快挙であった。
大森一樹監督の代表作は自らの体験を綴った青春映画「ヒポクラテスたち」(80年キネマ旬報邦画第3位)だが、「すかんぴんウォーク」(84年)など吉川晃司3部作、「恋する女たち」(86年)など斎藤由貴3部作、「ゴジラVSビオランテ」(89年)、「悲しき天使」(2006年)など幅広く撮り、全部に自身の映画愛が満ちている。
映画「大失恋。」(95年)の公開日前日の試写会の舞台あいさつのため阪神大震災で被災した大森一樹監督が芦屋から大阪・梅田東映劇場まで自転車と電車を乗り継いで大きなリュックを抱えやって来た。この時のインタビュー記事が大阪日日新聞同年1月21日付け1面に載っている。後に復興事業として自主製作で「明るくなるまでこの恋を」(99年)を発表。「暗くなるまで待てない!」と合わせた2作は大森一樹監督の隠れたベストムービーかもしれない。
急性骨髄性白血病。筆者より6歳若い70歳。まだ早かった。長い付き合いだが、「暗くなるまで待てない!」の撮影を一緒にやって、わいわいやっていた頃が懐かしい。今は安らかに。そしてまた会おう。
追伸。今大阪で続いている「おおさかシネマフェスティバル」は1976年に始まった「映画ファンのための映画まつり」が源流である。そのタイトルの命名者が当時学生だった大森一樹。東映の若手だった関本郁夫監督と週刊ファイトの記者だった私の3人で設計した映画の「お祭り」だった。永き間の映画ファンの同志、戦友である。関本監督が「寂しくなったね」と電話をかけてきた。
写真は「おおさかシネマフェスティバル2019」の舞台でプロデューサーとしてあいさつする大森一樹監督=大阪・堂島のホテルエルセラーン大阪

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