片岡仁左衛門、松竹座を語る
「名残歌舞伎」取材会
2026年3月2日 ホテルニューオータニ大阪で
大阪松竹座さよなら公演
〈御名残四月大歌舞伎〉
2026年4月3日(金)~4月26日(日)
◇昼の部
彦山権現誓助剱
一、毛谷村(けやむら)
二、坂田藤十郎七回忌追善狂言
夕霧名残の正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)
由縁の月
三、「鳰の浮巣(におのうきす)」より
大當り伏見の富くじ(おおあたりふしみのとみくじ)
お稲荷様ご神託より霊験あらたか「抜け雀」まで
◇夜の部
一、菅原伝授手習鑑
寺子屋(てらこや)
寺入りよりいろは送りまで
二、五條橋(ごじょうばし)
三、坂田藤十郎七回忌追善狂言
心中天網島
玩辞楼十二曲の内 河庄(かわしょう)
大阪松竹座さよなら公演
〈御名残五月大歌舞伎〉
2026年5月2日(土)~5月26日(火)
◇昼の部
一、寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)
源平布引滝
二、義賢最期(よしかたさいご)
三、鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)
◇夜の部
一、近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)
盛綱陣屋
二、落語「星野屋」より
心中月夜星野屋(しんじゅうつきよのほしのや)
三、當繋藝招西姿繪(つなぐわざおぎにしのすがたえ)
大阪・道頓堀にある劇場、大阪松竹座(以後、松竹座)が2026年5月をもって閉館する。1923年に開場して以来、当初は映画館として、そして1997年からは歌舞伎など演劇の拠点として、親しまれてきた。「大阪松竹座さよなら公演」と題された4月と5月の公演に出演する人間国宝、十五代目片岡仁左衛門が取材会で出演する演目をはじめ、芝居街として栄えた道頓堀、松竹座への想いを語った。
〈道頓堀、松竹座への想い〉
「道頓堀に芝居小屋ができて長い歴史があります。私が初舞台を踏んだのも道頓堀。父(十三代目片岡仁左衛門)は『道頓堀から歌舞伎の灯を消したくない』ということで「仁左衛門歌舞伎」(注1)を立ち上げました。松竹の歴史としても寂しい、どういう形にしろ、もう一度道頓堀で歌舞伎をうてる芝居小屋が再建できるできるように頑張りたいと思っています。
昔は道頓堀には五座(注2)があって、江戸時代には五座ではきかないくらいたくさんの芝居小屋がありました。しかし、いまは歌舞伎に限らず東京の一極集中ですが、ほそぼそとでも大阪で生まれた歌舞伎の文化を守っていきたいというのが演者としての気持ちです。
五座のなかでも、私にとって一番想い出があるのは、やっぱり初舞台で立った中座ですね。あの当時の中座はロビーに庭があってね。楽屋が舞台裏に中二階で吊ってあったり、薪で炊いていたお風呂の匂いが舞台にも伝わってきたりとか。夏に大雨が降るとロビーに降ってる雨音が聞こえてきたりと、良き時代の温もりを感じましたね。それと「仁左衛門歌舞伎」の旗揚げは朝日座(元の文楽座)でやりました。その頃はまだ芝居茶屋がありましたね。当時はどの小屋にも冷房がなくて、氷柱を楽屋に立ててね。いまは亡き中村勘三郎君や坂東三津五郎君と一緒に汗だくになってつとめていたのも懐かしいでねえ。
私には実際の数字はわかりませんけど、見た目は劇場を閉じないといけないようなふうには考えられない成績じゃなかったのかなと思うんですけど、いかんせん松竹はいろんなことをやっている大きな会社ですから…。昔は歌舞伎がダメな頃は映画に食べさせいただいて、映画とか歌舞伎も下地の時は松竹新喜劇に食べさせていただいてね。次どうなのかなと思ってたら、まあどうにかやってきてね。手渡すって聞いて。『えっ!』となって、とにかく『残念!』。いつも思うのは。東京は劇場がすごく多いんですよね。それから考えると、本当に大阪は寂しい。実数は知りませんけれども、東京の半分も半分もないんじゃないですか。文楽も大阪より東京のほうが入るっていうんですからね。私たち責任があるんでしょうけど、皆さんのお好みというのがいる変わってきてるねえ。
中座というは、御堂筋や地下鉄の駅から歩かないといけなくて、立地条件がお客様に対して非常に不便な場所でした。だから。雨が降ってもあまり濡れないし、地下鉄も近くて足の便もいい松竹座で歌舞伎をうてるようになったらいいのになという夢のようなものを、早くからずっと抱いてました。それが実現した時(1997年)は嬉しかったですね。あの頃は、南座や明治座のリニューアする時に楽屋の設計について、私のところに意見を聞きに見えたんですよ。とにかく『働く者が働きやすく、お客様が見やすい劇場』をと言いました。楽屋についていうと、最初持ってこられたのは、幹部俳優の部屋が窓のある側で。ほかの人が窓のない部屋だったんです。けど。やはり拘束時間の長い人、それから、1人に対しての占有面積の非常に狭い人たちの部屋を窓のあるほうに持って行くようにアドバイスしました。圧迫感のないように、障子をつけて、それを開けたら、姿見になってるとかね。それから、2番手の役者さんたちの部屋が幹部さんの楽屋に比べるとがくんと落ちちゃうんですよ。ですから、それなりにメンツが立つように、ちょっとこう狭いけども、あの置き床を作って少しでもくつろげるようにして、2段階のランクつけを3段階に分けたりもしました。そんなこともあって、それなりに働きやすい劇場になっていましたからねえ」。
〈御御名残四月大歌舞伎について〉=夜の部の「菅原伝授手習鑑 寺子屋」に松王丸で出演。同役は1966年3月に大阪・道頓堀にあった朝日座での公演で演じて以来。今回で17回目。松竹座で1998年4月の十五代目・片岡仁左衛門の襲名で演じた。
「寺子屋」の松王丸を襲名公演で演じた時は、関西の役者として義太夫歌舞伎(注3)をしっかり勉強してつとめたいと思ったものです。あの時は2カ月も襲名公演をさせていただいた喜びというか、自分のなかである意味、自慢にもなりました。大阪の役者というのは時代物狂言(注4)が基本なんです。歌舞伎にもいろんなジャンルがあって、いろんな色のお役ができるわけですが、新しいものは、歌舞伎以外の他のジャンルの俳優さんでも、ある程度できるようなこともありますが、義太夫狂言は他の人たちには及第点がとれる芝居ができないと思います。これは、歌舞伎役者しかできないと。やれるとしたら、女優さんでは山田五十鈴さんとはやれたでしょうけども、男性を加えて、義太夫狂言ができるタレントさん、俳優さんはいらっしゃらないじゃないかなと思うんです。やっぱり、歌舞役者というのは、それをしっかり身に付けてやってきた。他のお仕事をしても、歌舞伎役者っていうことで、一目を置いてくださるんですよ。それにはやはり、歌舞伎というものを身に付けてないといけないと思いますね。役者に集大成はないんですよ、常に途上ですから、まだまだいくら頑張っても完成はないですから。ここのところ10年はやってないんですけども、その間にいろいろな経験をしているので、それを活かして演じられればと思ってます。
〈御御名残五月大歌舞伎について〉
夜の部「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」=1984年6月に東京の歌舞伎座で演じて以来。7演目。松竹座では1934年3月の松竹座再開場でも演じている。
「松竹座の再開場で演じた時は、こんな大局の演目を一座の中で演じられたありがたさを感じました。あの時にご一緒した方々の多くはもういらっしゃらなくて、懐かしいですね。大好きな狂言で。子役の頃に出演して、ご一緒した市川壽海さん(注5)にずいぶんと感化されて、まだ子供だったからうまいへたはわからなかったけど、台詞に魅力を感じましたね。その頃からいずれはやりたいなと思ってたお役。
夜の部「當繋藝招西姿繪」は監修をつとめます。大阪ゆかりの幹部役者さんたちに出ていただいて、踊りやお話をしていただこうかと思っています。道頓堀、松竹座、上方歌舞伎への想いを感謝の気持ちを込めてお客さまに伝えたいですね。本当は私も出たいのですが…。「盛綱陣屋」を毎日つとめるのはいまの私には重荷なんです。最近はダブルキャストでやっていただいているのですが、1カ月公演をフルに主役をつとめるのは、久しぶり。つとめるからには、できるだけ体力を温存して、きっちりつとめたいので、申し訳ないのですが、この狂言は失礼させていただこうと思っています。
「寺子屋」「盛綱陣屋」とも忠義と子供への情のはざまで苦悩する人物です。「「盛綱陣屋」の佐々木盛綱はまた納得できる余地がありますけども、「寺小屋」の松王丸は現代の人がご覧になったら納得できないところもあります。でも、そういう気持ちを忘れて松王丸の気持ちになっていただければなと。それをわかっていただけるようにと演じてるわけではないんですよ。ただ。その人物を一生懸命やることで、わかっていただけるんじゃないかと思うんです。狂言によっては、いまの時代にはストレートにお客様に訴えることができないと筆を入れることがありますが。この2つについては必要がありません。時代ものということなのか、骨格がしっかりしています。
最近は1つの狂言の全部をやらないもんですから物語がわかりにくい、やっぱり父からの影響でしょうね「仁左衛門歌舞伎」の頃からそうなんですが、それを改めようというので、ふだんあまり上演されない段を付けたりして、物語がわかりやすいようにしています。お客様は、こちらいくら台詞で訴えても、訴えた分の半分受け取ってくださるかどうかわからない。さっきああ言うてたでしょうでも、ああそうでしたかって言われるからね。目で見る大切さ。それと時間を凝縮するのが大切です、歌舞伎に慣れ親しんでいただいている方も、ご覧になったことはない方も。『歌舞伎はつまらんなあ』と思われないようにつとめたいと思っています。初めて方の心を逃がしたくないですね」。
集まった取材陣はいつも以上の約60人、約1時間にわたる質疑に率直に答える言葉は「至言」の連続。それだけに、「残念」の言葉が胸に迫った。
(※)は筆者注
(1)上方歌舞伎を守ろうとする意図で十三代目片岡仁左衛門が私費を投じて始めた公演で、1962年から42年まで5回の公演を行った。
(2)浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座
(3)人形浄瑠璃、文楽を基に歌舞伎として上演された狂言
(4)江戸時代以前の物語を描いた歌舞伎
(5)三代目(1986年から1971年)、関西歌舞伎を拠点に活躍。市川雷蔵の養父でもある。