「NOハンブルクNOビートルズ」
 2024年12月6日公開
 くしくも、ジョン・レノンが凶弾に倒れた日(日本時間・1980年12月9日)にこれを書いている。当時、私はスポーツ新聞の整理部にいて、その一報が届いた。早版(夕方に販売する版)の第1面をレイアウトし、見出しをつける担当で、まず思いついたのが「ビートルズはもう見られない!」だった。ずっと再結成が待望されるなかで、これで「4人そろって」のライブが不可能になったのだ。センスのない?デスクに却下されて、それはボツになったが…。
 そのレノンが生前に言っていたのが、「僕らはリヴァプールで生まれ、ハンブルクで育った」。彼らがリヴァプールにある「キャヴァーンクラブ」で演奏していたのはよく知られていて、いまでは「聖地巡礼」として多くの人が訪れている。しかし、ドイツ・ハンブルクで〈下積み〉を経験したことは、あまり知られていない。このドキュメンタリーは1960年に初訪問から63年に「プリーズ・プリーズ・ミー」(63年)のヒットを経て、66年に6回目の訪問までを綴ったドキュメンタリー。権利関係などで映像や音源に制約があるなか、関係者の証言やアニメーションなどを使って、凝縮した1時間ものに仕上げている。
なかでも、興味を抱くのは、「もう2人のビートルズ」。実は、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リング・スターという〈いまのメンバー〉になる前に、スチュアート・サトクリフ(ベース)、ピート・ベスト(ドラム)がメンバーだった時代がある。サトクリフの生涯は映画「バック・ビート」(1994年)で描かれているし、ベストは「もう1人のビ-トルズ」という著書を発表。サトクリフは62年に22歳で死去。ベストは、この映画で〈生き証人〉としてインタビューに答えている。
 「ハンブルクはなかったら(NO)、ビートルズはいなかった(NO)」。最近でも、マッカトニー自らが撮影した作品を集めた写真集が東京、大阪で開催。個人的には、来年に武道館での日本公演(1966年)と〝再会〟できる機会がありそう。ビートルズはまだまだ〈現役〉だ。
〈ストーリー〉1960年、ドイツ・ハンブルクのクラブオーナーたちは、水夫からイギリスではアメリカン・スタイルのロックンロールが演奏されていると聞き、アメリカより安く来られるイギリスからアーティストを招く。8月15日、ビートルズは、列車代や船代も出せず、ミニバスでハンブルクを初訪問。ストリップクラブ「インドラ」で演奏することに。隣の映画館でベッドも照明も暖房もないところにユニオンジャックの旗を被って寝て過ごす。最初は無名だったが、1〜2週間後には混み合い、6週間後には近所からの苦情で、ライブ演奏が禁止に。やっと「カイザーケラー」で演奏できることになる。
1962年4月、ハンブルクの「スター・クラブ」のオープニングに呼ばれたビートルズだが、初めて飛行機に乗ってハンブルクに行くと、空港で待っていたのは、スチュアート・サトクリフの恋人・アストリッドのみだった。元メンバーの死を知るメンバーたち。8月には、ドラマーのピート・ベストが外され、リンゴ・スターに変わる。11月と12月にハンブルクを再訪し、大晦日を最後に「スター・クラブ」での公演を終えると、11日後に発売された「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスで大ヒットする
出演:ピート・ベスト、アラン・ウィリアムズ他
監督:ロジャー・アプルトン
2024年 / イギリス / 60分 / カラー
1.85:1 / 5.1ch / 英語
原題『No Hamburg No Beatles』
字幕監修:藤本国彦
配給:NEGA
A BI Hamburg Production Ltd ©2024

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