「海の沈黙」
2024年11月22日、全国公開
この映画を観て、「遠い昔」のことを思いだした。大学でメディアを研究するゼミにいた私の卒業論文は「通俗論~複製技術によって作り出せるところの『通俗性』」。そこで書いたのは「ホンモノ」と「ニセモノ」のこと。高名な人物の作品と〈お墨付き〉があれば「ホンモノ」で、無名もしくは意図的に「ホンモノそっくり」に作られたものは「ニセモノ」というのが一般的な定義。それはアカデミックな分野だけでなく、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」や「芸能人格付けチェック」などでは、おもしろおかしくそのテーマに切り込んでいて、それらを観るたびに、「ホンモノとは?」「ニセモノとは?」と考えさせられる。その「卒論」には寺山修司のこんな一文も引用した。
「誰が見てもインチキだとわかる似ても似つかぬゴッホの『糸杉』をお伊勢参りの帰りに、田舎のおばあさんがヨーロッパの名画といって帰って、山の中の炭焼き小屋に飾られたときに、それは近代なんです。ホンモノであるかニセモノであるか、こだわるのは全く意味がないんじゃないか」。
原作・脚本を手掛けた倉本聰は、「美術作品の価値というものは社会的権威によって保証される。だがその価値基準は元々極めて主観的なものである。だから世の中には贋作が絶えない」と、長年にわたって構想を練っていて36年ぶりに映画の原作・脚本のだった。会見では、「絵画の贋作や改作は常 に“美とは何か?”や“作者によって絵画の価値は変わるのか?という問いを突きつける。画家の描いた作品とその贋作、その複製画は何が違うのだろうか? 目の前の一枚の絵が我々の知っている人気画家の筆のものでは ないとわかった時、あなたの評価は変わるだろうか?」とも語っている。昔から、山田太一と共に倉本聰作品にはほとんど観て育った。「北の国から」「前略おふくろ様」「やすらぎの郷」などはもちろん、「大都会 闘いの日々」での「俺の愛したちあきなおみ」は秀逸!だった。
さて、本題に。この映画は「ダイナミックな展開」と「細やかな人物描写」が巧みに組み合わさっていた。「ダイナミックな展開」とは、高名な画家が展覧会に展示された絵画が、自分の作品ではないと確認する意表をつく幕開きから。右往左往する関係者、そしてそれを所蔵していた美術館館長は、ホンモノかニセモノかは別にして、「その絵画に魅せられていたために悲劇が起こる。
そんな都会の事件から、物語は北海道で必死にキャンバスに向かう男のドラマへ。こちらは、都会の喧騒とは別世界で、1人の画家の生活が描かれていく。とはいえ、彼の周辺には謎を秘めた男、全身にタトゥを彫った女性、そんなタトゥに魅せられて自分も彫ろうとしている若い女性と、また〝陰影の濃い〟人物がいる。そうした、いわゆる平凡な生活をおくる人々にはちょっと異質でドラマチック(劇的)な生きざまに惹きつけられていく。ただ、欲を言えば、タトゥにまつわる2人の女性のそこに至る経緯や過去をもう少し知りたい気もしたが…。
そして、再会する画家とかつての恋人との心情、気持ちの移り変わりが丁寧に描かれている。例えば、再会を果たし別れに握手を交わすシーン。アップでとらえた画家の爪先は黒い。それは、簡単には取れないほどに油絵具に染まる日々を過ごしているのを象徴していた。
いまは映画界は、ヒットを大前提にして製作される映画が多いなか、しみじみと味わえる〈成熟した作品〉だ。
〈物語〉世界的な画家、田村修三(石坂浩二)の展覧会。会場を訪れた田村が、展示作品のひとつが贋作だと訴えた。贋作を保有していた美術館の館長・村岡(萩原聖人)は、田村の妻・安奈(小泉今日子)に無実を訴えた後、自ら命を絶つ。安奈は村岡の葬儀の席で、かつての知人で中央美術館の館長の清家(仲村トオル)と再会。清家は田村の依頼を受けて、贋作の謎を追っていた。同じ頃、北海道・小樽で全身に刺青の入った女・牡丹(清水美砂)の死体が発見される。田村の過去を知る“美術愛好家”を名乗る・スイケン(中井貴一)もまた小樽にいた。若いバーテンダーの女性・あざみ(菅野恵)をつれて彼が向かった先にいたのは、大きなキャンバスを前に創作を続ける男、津山竜次(本木雅弘)だった。彼が、かつて天才画家と呼ばれるも、ある事件を機に人々の前から姿を消した。かつて竜次の恋人だった安奈は、清家から竜次の消息を知り、小樽へ向かい再会するのだが…。
〈キャスト〉本木雅弘、小泉今日子、清水美砂、仲村トオル、菅野恵、石坂浩二、萩原聖人、村田雄浩、佐野史郎、田中健、三船美佳、津嘉山正種、中井貴一。
〈スタッフ〉原作・脚本:倉本聰。監督:若松節朗。製作:曵地克之。プロデューサー:佐藤龍春。製作会社:インナップ。 配給。宣伝:ハピネットファントム・スタジオ
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