関本郁夫は映画&テレビでいかに生き延びたか*

1942年京都生まれの映画監督・関本郁夫(80)が自らの半生を振り返って綴った「映画監督放浪記」(小学館スクウェア刊、4950円)を出版した。61年に18歳で東映京都撮影所に入社し美術部に配属されて始まった映画人生で、65歳で監督引退するまでの波乱万丈な生き方が鮮烈に伝わってくる。父親が大工さんで、彼は京都の伏見工業高校を卒業するとそれを継ぐのが両親の願いで撮影所でも美術部の大工仕事がメインということにつながった。しかし63年ころ撮影所が超多忙になり、助監督の人数が足りず関本はその部署に回され思いがけない方向を示される。
初めて助監督として付いたのは加藤泰監督の「車夫遊侠伝・喧嘩辰」(64年)で、以降、藤純子主演「緋牡丹博徒・花札勝負」(69年)など加藤節といわれるローアングルポジションの映像に魅了される。また時代劇、任侠もの、空手映画など職人監督として113本の映画を撮った小沢茂弘監督の作品にも多く付き「弟子」的な存在になるが、小沢監督が55歳で東映を去り易者に転身したことにショックを覚える。
「高卒のおれは監督になれるだろうか?」。そのため助監督の合間、猛烈にシナリオ修行をしてその機をうかがった。それが認められ31歳の時、「女番長・玉突き遊び」(74年)の監督が回ってくるが、主演女優の叶優子がアクションシーンで大けがをして撮影延期になり、代わりに池玲子主演「女番長・タイマン勝負」(74年)が用意された。「複雑な気持ちだったが、2本続けて撮ってデビュー作が2本という稀な監督になった」と述懐する。
「―タイマン勝負」は深作欣二監督のヒット作「仁義なき戦い・頂上作戦」と併映で多くの映画ファンの目に触れたのは幸運。映画の全盛には遅れているが、東映の異能派の職人監督としてその後多くの作品を手がけ、ひし美ゆり子主演「好色元禄物語」(75年)、結城しのぶ主演「天使の欲望」(79年)などの傑作を発表し、熱心な映画ファンの支持を受ける。
やがて黒沢年男主演「ダンプ渡り鳥」(81年)が不入りで東映テレビ部が制作にからんだテレビ映画「服部半蔵・影の軍団」で千葉真一と組んで順調な道に戻るが、2年後何と千葉との蜜月が壊れ、東映を退社する事態に発展。入社から22年が過ぎていた。直後、三船プロのテレビ「暁に斬る!」に呼ばれて撮るが主演の北大路欣也も東映仲間で彼は撮影中芝居に何も注文は付けなかった。「千葉さんと2年間付き合った恐ろしい監督だから、言われた通りにしようと決めていた」と北大路は後日話したという。
その後、関本はテレビドラマの売れっ子監督として多くの作品を撮る。「包丁一本晒に巻いて~」である。その時出逢ったスタッフ、俳優人との付き合いも執筆されており、脚本家との格闘、プロデューサー、俳優とのセッションのプロセスが書かれて楽しい。高田宏治、天尾完次、川内康範、古谷一行、高橋英樹…。そして再び東映本編に呼ばれて岩下志麻「極道の妻たち・赫い絆」(95年)、髙島礼子「極道の妻たち・死んで貰います」(99年)などの傑作を発表し、元東映の俊藤浩滋プロデューサーに呼ばれ任侠大作「残侠 ZANKYOU」(99年)を撮り、「遅れてきた映画監督の栄光」(編集者・伊藤彰彦)として高く評価されている。
面白い人生読本。その道の最後に「やめたッ!」とつぶやく姿が容易に想像される。その時、関本、65歳。立派な定年である。

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